耳の遠くなった義母とは電話もできなくなっていたので、遠いということもあり、何もできないままの別れとなってしまいました。
たまに、帰った時も、母にとっては、末っ子の嫁。しかも息子である夫とは年が7つもはなれていて、孫と同じような年代の私を、嫁というより、孫のように可愛がってもらった気がしています。
結婚して間もない頃、大分の家の裏庭の畑から、夕食に使うしょうがを採ってきてと言われ、方言もわからない、しょうがもスーパーに売っている形しか知らない嫁に、悪い足で、一緒に畑に行って、これがしょうがだよと教えてくれた母。「東京の嫁は使えん!」と思ったことでしょうが、いつもニコニコと笑い飛ばしてくれる人でした。
だから、世間一般の嫁姑問題も経験せずにこれたことは、母の寛大さと、子を思い、子の家族を思うやさしさには、尊敬するばかりで感謝でした。いつか私もその域に達したいと、憧れの存在でもありました。
実は、大分から戻って、聞いた留守番電話に恐ろしい間違い電話が入っていて、「バラバラにしてぶっ殺すぞ!」などというものが2本と、間違いに気付いた同じ声の主から「先ほどは間違えてしまってすみません・・」と平謝りの1本が入っていました。
もしも、家にいて、私や子どもがその電話を取っていたら、あの勢いで、ものすごい剣幕です、間違いだと気付かずに、大きなことに発展してしまったかもしれません。そうでなくても、恐い思いはしたでしょう。留守にしていたから、謝りの電話まで入ったものを聞けて、笑い話で済ますことができたのかもと思うと、このタイミングで大分に呼んでくれて、おばあちゃんありがとう!と子どもと話しをしました。受験を控えた中3の息子には、面接等に向けて整えなくてはならないものを、お葬式に出るために靴も新調しようか、靴下も買っていこうかと、身支度を整えることにもつながりました。母は、のんびり屋の嫁に、孫の世話を任せておけなかったのかもしれませんね。
本当に偉大な母でした。
活動は数日お休みとなりましたが、大分の親族大集合(夫は6人兄弟で、その子どもがそれぞれ2〜3人ずつ、そのまた子どもも2〜4人ずつ生まれつつあるので、親族だけで50人近くなります。)に、これが、人間、暮らしていく原点、人を思いやる原点なのだとあらためて感じ、子ども達にも経験となったことだと思います。地域の方のお手伝い等もいただき、最期をどう送るのか、話しの端々から、医療・介護・福祉・地域社会のコミュニティづくり、地域ごとの習慣の違いから、文化を大事にするということとは、大家族・核家族・葬祭場のアメニティなどなど、さまざまなことを考えた旅でした。
親類の暖かい励ましもいただく機会となり、また、明日から元気に活動を再開したいと思います。
合掌。