終戦記念日。何度でも平和を決意しよう!

父の遺品を片付けていると、あらためて、父のことがわかるような気がします。

楽しいこと、みんなを笑わすことが好きだった父は、町内会にカラオケの会をつくり、衣装や小道具、舞台飾り、さまざまなものを用意して、自分も楽しんでいました。

さまざまな会で、書記や会計を任されていた名残の書類がたくさんある中に紛れて、戦争に行ったときの所属を証明するような書面なんかも出てきて、確かに兵士となった時があるんだなと感じるものも。

父は、終戦を父島で迎えましたが、そこへもアメリカ軍が終戦を伝えに来たそうです。

アッという間にバレーボールのコートを作り、「もう殺し合うのは終わりだ!一緒にバレーボールをしよう!」と、バレーボールをして遊んだのだそうです。

そして、持ってみろ!と持たされたアメリカ軍の銃のなんと軽いことか、片手で持ち上げられれる軽さでびっくりしたと言っていました。かたや両手でやっと持つ重さの銃で、戦っていたのですからフットワークが違うわけだ!と、こんなに技術差がある国と戦うとは無謀な戦いだったと実感したそうです。

海の無い青梅から、海に囲まれた父島に行って、海が大好きになり、戦後12年も経ってから生まれた長男に「洋」の字を使って名前を付けた父。

でも、その思いは複雑だったのかもしれません。

自衛隊の演習場に見学に行く機会もたくさんあった父は、自衛隊グッズもたくさん残していましたが、憲法について書かれた本もたくさん出てきました。

技術に憧れ、大きな力に憧れる一方で、平和への祈り、自然への畏敬・・・思いが混在しながら、時代に翻弄されながら生きてきた・・・のかな?今はもう想像することしかできませんが。

父の母・・・私の祖母は、ひとり息子が戦争に行っている間は、貧しい戦時中の物資不足にあっても影膳を据え(どこのお宅もそうだったのでしょう)、戦地から帰ってくると、近所中に「帰ってきた!」と知らせまくったそうです。

ある時、父が近所の飲み屋さんから帰ってきて、「ママを相手に戦争の時の話をしていたら、他のお客さんに、『そんな話は聞きたくない!』って言われちゃった・・・」とさびしそうに言ったことがありました。

まあね~他のお客さんも楽しもうと思ってきたお店で、戦争の話はねえ~

でも、人が聞きたくないと思うような体験を戦争に行かれた方々はしてきたということでもあるんだと思います。父は、通信兵で電報を打ったり、解読したりという仕事だったようなので、実際の殺戮にどこまで関わったことがあるかはわかりませんが、家族と離れ、仲間が死にゆく環境で辛くないはずはありません。

どんなことがあっても、二度と戦争を起こしてはならない。

人は楽しんで、みんなと仲良くして生きてくんだと教えてくれた・・・と思われる父からのメッセージを胸に、世界平和につながることこそ、日本はやっていきましょうよと提案していきます!!